今日から、ワールドカップです。
事務所の奥で、飯島、岡安、五頭がなにやら打ち合わせ中と思いきや、社内Totocalcioの相談です。
私が、ワールドカップを初めて知ったのは、'66年のイングランド大会の記録映画「Goal」でした。映画館のスクリーンに映し出される芝生の緑が目にしみました。
私の卒業した。東京教育大学附属中学(現在の筑波大学附属)は、とてもサッカーが盛んな学校で、サッカー部(正式には蹴球部)は強く、都大会でいつも、ベスト3に入る競合でした。
私は、蹴球部の都大会には殆ど同行し、トプコンREスーパーにサンというレンズメーカーの80mm~200mmのズームレンズで試合を撮影していました。
当時の体育の先生は、メルボルンオリンピックのサッカー代表候補だった松木先生で、体育の時間の1/3くらいはサッカーをやっていたような気がします。
私は蹴球部ではありませんが「桐葉」というクラブチームのゴールキーパーとして参加をして、学内スポーツ大会ではいつも優勝していました。この桐葉は大学まで続き、色々なチームと試合をして楽しみました。
その頃の日本のサッカー環境は、今とは大違いでした。やっと、日本サッカーリーグが発足し、サッカーマガジンが発行され始めた頃です。国立ですら芝生等は無く、雨が降ればグチャグチャのグラウンドで試合をしていました。
天皇杯では、早稲田大学と東洋工業なんかが戦うような状況でした。
大学時代に桐葉を解散してからは、サッカーには見むきもせず写真の修行をしていました。
独立して、何かの仕事で、博多の西鉄グランドホテルに宿泊したときに、ホテルが若い女の子達に囲まれいて誰かタレントさんでもいるのかなと思いました。
宿泊した部屋から、食事に行こうとドアを開けたら若い女の子2人がホテルの廊下の柱の影に隠れていたので「何をしてるの?」と声をかけました。「北沢選手の部屋がこのフロアーなんです。」と答えが返ってきました。後でわかったのですが、キリンカップで日本代表が西鉄グランドに宿泊していたのでした。そこで、やっと日本のサッカー状況が大きく変化しているのだと気がつきました。Jリーグの始まる2年くらい前だったと思います。
それから、Jリーグが始まりました。ドーハの悲劇は、朝日新聞社の地下のスタジオで、朝日パソコンの撮影をしながら、TVで見ていました。フランス大会から、3回連続ワールドカップ出場なんて、芝生の上でのサッカーなんて夢のようです。
次の南アフリカのワールドカップには、カメラをもって見に行きたいと思います。
もう、そのくらいの贅沢はしてもいいですよね・・・・
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