合掌 クラマーさん。 9月19日(土) 5307


クラマーさんが亡くなりました。
私の年代の「サッカー少年」にとっては、神様みたいな人でした。
大衆スポーツとしては、野球とプロレスと相撲くらいしか無かったサッカー後進国というか、野蛮国日本に指導に来てくれた、旧西ドイツの方です。
合掌 クラマーさん。 9月19日(土) 5307_b0069507_7434882.jpg
私の行っていた大学附属の中学は、体育の先生がメルボルンオリンピックのサッカー全日本代表候補だっただけに、サッカーが盛んな学校でした。また、昔から大学のサッカー部も強く、その影響かサッカー部(蹴球部)も強く、都大会での優勝回数も多い中学でした。
それだけに、野球よりサッカーが盛んで、64年の東京オリンピックでのベスト8、メキシコオリンピックでの銅メダルは、ワールドカップで優勝したようなものでした。(1964年にワールドカップを知っていた、日本人は何人いたでしょうか・・・)
当時のサッカーをする環境は、今と比較すると比べものになりませんでした。芝生のグランドは全く無く、1月に天皇杯決勝が行われる国立競技場さへ、芝生はありませんでした。サッカーは芝生のグランドでするものだとわかったのは、ワールドカップの記録映画「ゴール」を見てからでした。それと共にワールドカップというのは、とてつもない大会だというのを、映画を通して知りました。「ゴール」を見てチルコフスキとエウゼビオのファンになりました。
それかから幾星霜、今の日本のサッカー状況は信じられないくらい、素晴らしくなりました。
芝生のグランドは当たり前だし、サポーター(昔はこんなしゃれた言葉はありませんでした。)は、いっぱい見にきます。私がサッカー少年だった頃は、天皇杯とはいえ、観客少なかったのです。
そして、日本人選手が、たくさんヨーロッパで活躍しています。Unbelievable!
クラマーさんは、日本を去るにあたって、5つの提言を残しました。
1:国際試合の経験を数多く積むこと。
2:高校から日本代表チームまで、それぞれ2名のコーチを置くこと。
3:コーチ制度を導入すること。
4:リーグ戦を開催すること。
5:芝生のグラウンドを数多くつくること。
これを、忠実に実行して、今の日本サッカーになったのです。
日本サッカー狂会・武藤文夫さんのブログによると
『1975年にクラマー氏は、ベッケンバウアやゲルト・ミュラーを擁しバイエルンミュンヘンを率い、欧州チャンピオンズカップ(チャンピオンズリーグの前進)を制した。その折に「人生最高の瞬間ではないか」と問われ、「最高の瞬間は日本がメキシコ五輪で銅メダルを獲得したときです。私は、あれほど死力を尽くして戦った選手たちを見たことがない。」と語ってくれたと言う。』との事です。
クラマーさん、ありがとうございました。合掌。

P.S その頃、蹴球部の試合の写真を写していました。カメラはトプコンREスーパー、 レンズは今は無きレンズ専業メーカー「サン」の80mm〜200mmのズームレンズでした。

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by mash_boss | 2015-09-20 07:44 | 日常生活 | Trackback | Comments(0)
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